誰がために鐘は鳴る

2022.12.02(金)

ひふみ

Writer:hifumi

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」でおなじみの法隆寺。
その近隣に居を構えるわたくしは、ひふみサポーターの一人、黒川よかいちでございます。
以後お見知りおきの程を。

さてさて、年を重ねるほどに季節の移ろいの早さにめまいを覚え、今がどの季節かわからなくなって行きます。
そんなわたくしにも季節の移ろいに敏感な幼少時代はあったもので、今日はそんな幼少時代の話をひとつ。

当時、わたくしは大阪市の平野区に住んでおりました。
当時の平野区は、牧歌的な大和川流域の雰囲気と工場での汚水まき散らす不衛生さが混濁し、第二次ベビーブームによる人口増と大阪市の中心地域からはじき出されたかのような雑多な人々が入り混じった中々に多国籍感ある土地柄でした。
当然、そのような地域に生まれ育ったわたしくしは、大変お上品な気質に育ちました。
カエルのお尻に爆竹を突っ込み破裂させ、喧嘩した兄を包丁片手に追いかけ回し、近くの畑で育ち切る前のスイカでスイカ割をする。
そんな優雅な幼少期を過ごすのです。

お上品な少年であるわたくしは、小学校に上がるとある同級生、そしてそのお母さんと毎日登校していました。

今日はこの同級生の話です。
名前はU君とでもしておきます。

何故、U君と一緒に登校していたのかは覚えていません。
小学校一年生のころの記憶です。
曖昧過ぎて記憶が書き換えられているかもしれません。

しかし、記憶違いではない事実が一点。
そして、鮮明に記憶していることが一点ございます。

まず、明確な事実としてU君は重度の肢体不自由児でした。
6歳の彼の手足は骨が浮き出るほど細く、常にあらぬ方向を示し、両の黒目は一点を見つめず左右非対称な動き。発語はあー、うーと呻くのみ。もちろん立位などとれるわけなどなく、ベビーカーで登校。毎日、お母さんにベビーカーを押されながら学校へ登校していました。

当時の私は、U君と登校しており、下校も一緒にすることもあって、そのままU君の家で遊ぶこともあったと記憶しています。
この辺の記憶は曖昧meマイなのです。
曖昧ついでにそのころ感じていたU君への気持ちなのですが、自分や周りの友達とはあきらかに違うU君に対してマイナスイメージはありませんでした。
手足が変な方向でバタつき、どこを見てるか分らない独特な動きをしながらよだれを垂れ流し、うめき声をあげているU君。
そんなU君に気持ち悪いといった感情はまったくなく、そういう子だ。と理解していた気がします。

次に鮮明に記憶している事。

U君のお母さんから事あるごとに感謝されていたということ。
当時の私はそれが不思議でなりませんでした。
U君のお母さんはただ遊んだり、一緒に登校しているだけのわたくしに何故お礼を言うのか意味がわかりませんでした。

子供ってやつは良い意味でも悪い意味でも純粋なんですよね。
なにかに影響されればすぐに染まります。
幼少時代のわたくしには、U君はU君であり、それ以上でも以下でもなく、健常児でも障害児でもなく、U君でしかなかった。

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

この歌は正岡子規が晩年、病に侵され療養中の奈良で読んだ歌であり、大好きな柿を食べたらそれを合図かのように鐘がなりだした。
きっと法隆寺の鐘の音なのだろうとおもい、私は生きているからこの感動を感じられるのだとおもい読んだ歌。

今、そこで素直に感じた気持ちがすべてであり、何かに影響された感情ではきっと100年以上ものこる歌にはならなかったでしょうね。
今そこにある事実をフラットに受け止め、素直に感じ、それを表現できる
そういうものにわたしはなりたいと最後はミヤザワ賢治で締めてみる統一性のない黒川よかいちでした。