当たり前な話
2024.01.26(金)
題名: 当たり前な話
黒川よかいち
2024年を迎え、新年。
年始から様々なニュースが流れ、自然災害で今も大変な方が数多くいる中、当たり前の日常が本当に貴重なものだということを日々感じています。
当たり前
この言葉、障害福祉に身を置いていた頃はよく使っていました。
障害福祉の仕事に携わるとサービス対象を区別する意味合いで健常者、障害者、健常児、障害児と分けます。
社会福祉にあまりかかわりのない方と話をしていて障害者・児の事が会話にあがった際、健常者側は無意識レベルで障害者・児を自分たちとは違う人たちと考えているなと感じます。
振り返ると私が子供のころの1980年代などは、まだまだ露骨な差別意識が強かったです。
今は時代の変化もあり、差別的な発言や行動をほとんど見ることがなくなりました。
そういった露骨な差別から露骨な区別になっている気がします。
端的に言うと
・障害があり普通のことが出来ないかわいそうな人たちと見ている。
・自分たちとは違う行動をする変わった人たちとみている。
・大変な人生を歩んでいるので助けなければいけない人たちと見ている。
ざっくり分類すると、健常者側の人たちは、
かわいそう(同情)・変わってる(偏見)・助けたい(慈悲)とそんな風に障害者・児をを見ているなと思っています。
自分を含めた一般の人とは違う。そう区別している時代になりました。
率直な感想としては、私の幼年・少年時代の露骨な虐待・暴言・迫害ありの差別より良い時代になったなと思います。
良い時代になってもっとより良い時代にならないかな。そう思ってよく当たり前という言葉を使って伝える事があります。
たとえば自閉症の方がいます。
その方は、工賃をいただく作業をする通所施設に通ってます。
その方の通所施設での日常はいくつか作業をすると手を止め、ニコニコしながら指をぱちぱち弾く指遊び。
また少し作業をして、指遊び。
たまにおもむろに立ってぴょんぴょんジャンプ。
作業時間の4分の3はそういった行動をして、残りの4分の1が作業をしています。
この状況をみてどう思いますか?
よくある健常者の反応として、
・よく頑張ってますね!(賞賛)
・指をぱちぱちさせているのには何の意味があるのですか?(疑問)
・楽しそうに作業されてますね(感嘆)
上記の賞賛・疑問・感嘆って明確に自分とは違うと区別しているのが分かるでしょうか?
自分の勤めている会社で就労時間の4分の1しか仕事してない人がいたら賞賛しますか?
自分の勤めている会社で謎のルーティンをしている人がいたら、長時間かかるルーティンの謎をわざわざ解明しようと思いますか?
自分の勤めている会社で大半の時間をニコニコして仕事をしていない人がいたら、楽しそうに仕事してるなぁって思いますか?
仕事しろ!って思いますよね?
普段ならそう思うはずなのに、障害者・児に対しては賞賛したり、わざわざ疑問に思ったり、感嘆したりするんです。
それは自分とは違う人たちと区別しているからなんですね。
施設に勤める人たちは多分、この自閉症の人の行動にわざわざ触れないし、声掛けもしないと思います。
端から見ると冷たいと思うかもしれません。
でもなぜ何もしないかというと、その行動ってその人にとっての当たり前の行動だからです。
健常者が仕事をしていて、腕組んで考えたり、首を回したり、背伸びをしたりするのと同じ。
なんとなくしてしまう当たり前の行動なんです。
いつもより指を鳴らす回数が多いとか、何かしら当たり前の行動に変化があったら注意深く観察したり声かけたりしますがね。
話がそれました。
健常者それぞれに人によっての当たり前があるように、障害者・児にとってもそれぞれの人に当たり前がある。
自分とは違う価値観だけど、それぞれの人にその人独自の当たり前がある。
当たり前ですよね。
それと一緒で障害者・児もその人独自の当たり前があるんです。
足がない人は、それが当たり前で日常を過ごしている。だから足がなかったとしても、その人なりの歩き方や移動の仕方があるからそれを見てかわいそうとも思ってほしくないし、すごいねってほめられたくもない。なんで歩けるの!?ってびっくりしてほしいわけでもない。
なぜならその人にとっては、それが当たり前のことだから。
その人が倒れてしまい動けなくなってしまった。
それは当たり前の状況じゃないから助けてほしいとその人は思った。
私がこけてしまい強く腰を打って立てなくなった。助けてほしいと私は思った。
一緒。
障害者・健常者とカテゴライズすることはあっても、その人たちにとっての当たり前をわざわざピックアップする必要はないよというお話でした。